院長の生い立ち 幼少期~高校生編

2021年11月12日

どのクリニックでもそうだと思いますが、院長ってどんな人?って気になりませんでしょうか?

実際、私も他のクリニックさんを初めて受診する際には、どんな先生が診察してくれるんやろ?気難しくて怖い先生やったら嫌やな、とか思って、ホームページの経歴やら顔写真やら口コミやらを見て、色々と想像を巡らす訳ですが、結局、受診してみないとわからないんですよね。

やはり顔写真だけではわからない、人となりが知りたいところです。

そこで今回からは何回かに分けて、私の生い立ちを、自己紹介もかねてご紹介したいと思います。それで私の人となりが伝わるかどうかは甚だ疑問ですが・・・情報は多い方が良いものですから。個人情報ダダ漏れで参ります。

 

 

私は1976年生まれの現在45歳です。

 

西宮北口で生まれました(正確には生まれたのは大阪市内の病院ですが、住まいは西北です)。3人兄弟の長男で、下には順に妹と弟がおります。

当時はマンションに住んでおり、物心ついてからは近所の同年代の子供たちと一緒につるんで遊んでいました。その中の一人のお父さんが、ヤンマーの実業団選手(今のセレッソ大阪ですね)だったこともあって、小学高低学年まではもっぱら近所の広場でサッカーばかりしていました。ところがある時、父の勧めで野球をしてみたら、他の友達よりも早い球を投げられることに気がつき、それからは野球にどっぷりはまってしまいました。ちょうどマンションの目の前が阪急ブレーブス(今のオリックスですね)の2軍練習場(こう書くと世代の方はどこか分かるかも)だったので、松永選手やブーマー選手のサインをもらえて嬉かったことを覚えています。今は西宮ガーデンズになっていますが、西宮球場にもよく試合観戦に行きましたね。以降、飽きもせず大学まで野球は続けました。甲子園なんかにはほど遠いレベルではありましたが。

 

マンションが手狭になったこともあり、小学校5年生の時に甲東園へ引っ越しました。転校が嫌で嫌でダダをこねていたのですが、戦車のラジコンに負けて、あっさり承諾してしまいました。でも転校先の甲東小学校時代の幼なじみとは今でも付き合いがあります。

中学校は受験をして中高一貫の六甲学院中・高等学校へ進みました。当時は関西御三家に挙げられるような名門だったはずなのですが、最近では学習塾の宣伝でも下の方に小さく名前が載る程度でちょっと寂しいですね。その名の通り、六甲山の山肌にあるカトリックの男子校で、阪急六甲道駅からきつい坂道を延々30分ほど登るとたどり着きます。6年間毎日登り続けるので、身体は相当鍛えられます。高3にもなると10分ほどで登れるようになるぐらいです。今でも体力には自信がある方ですが、それもこの6年間のおかげかもしれません。六甲学院にはとても変わった風習(校則?)があって、TV番組に取り上げられるほどなのですが、それについては別の機会にでもご紹介したいと思います。その風習や男子校ということもあって、生徒間の結束力はとても強く、勉強せずに部活動や学校行事に注力するものですから、大学受験の成績はあまり良くないのですが、同級生たちとは卒後27年経った今でも濃いつながりを維持しています。ちなみに前述の小学校の幼なじみは、中高の同級生でもあります。中高の6年間は本当に楽しかったですね。

 

これは入学時の私です。当時の校則でみんな丸刈りでした。入学した年の夏に廃止になったのですが。あの頃は嫌でしたが、今となってはいい思い出です。

 

そういえば、六甲学院の同級生が当院の開院をSNSで宣伝してくれたおかげで、しばらくご無沙汰していたような友人たちがお花をくれたり、一番のサプライズは、同級生が患者さんとして受診してくれたりしました!(本当はかからない方がいいのでしょうが・・・) 六甲の絆に感謝です。

 

さて高校3年生も卒業間近となった1995年1月、私たちは未曾有の大災害を経験することになります。そうです、あの阪神淡路大震災です。6000人以上の方が亡くなった、あの震災で私がどのような体験をし、どう感じたのかを含め、次回、大学生編でお書きしたいと思います。

 

 


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