前回は東京での新生活へ向けた準備についてお話しました。いよいよ臨床現場とは180度異なる基礎研究生活のスタートです。
■試練の始まり
赴任の1ヶ月ほど前、部長に挨拶するために初めて研究室(ラボ)を訪れた時のことです。私は早速やらかしてしまいました。記憶が定かではないのですが、確か東京で開かれた臨床の研究会(勉強会と同義です)のついでだったように思います。東京駅から新宿駅(正確には大江戸線の若松河田駅)に向かったのですが、なんと山手線を使うという、関東の人なら小学生でもやらないミスを犯したのです。今やスマホのアプリで一瞬ですが、当時はガラケーの時代。東京といえば山手線でしょう、と田舎者が深く考えずに乗ったのがいけませんでした。待ち合わせ時間に大幅に遅れた私を見て部長は一言、「あなた一体どこを通って来たの?!」
「いや、山手線で…」
「はあ?あなたそんなことも知らないの?!」
この時すでにその後の私の運命は決まったのかもしれません。出だしの印象は最悪でした。そして、働き出すまでに同ラボの研究者たちがこれまでに書いた論文を読みこんでくるように命じられたのですが…。
2008年4月某日、新天地での出勤初日。まだ荷解き待ちのダンボール箱だらけの下宿を出た私は、徒歩5分ほどの研究所に足を踏み入れました。
研究室に入るとすでに何人かの研究員が出勤しており、背中に視線を感じながら月曜朝の定例ミーティングに向かいます。後に知ったのですが、このラボ内には2つのチームがあり、組織図的には先述の部長(以下ボス)が束ねていますが、実質的には半分独立したチームとなっていて、私を値踏みしていたのは別チームの人達でした。
ミーティングが始まるとボスが開口一番、「じゃあ岡田さん、英語で自己紹介して」
え、英語!? それもそのはず、私の隣の席には愛称パーさんというラオスからの留学生がいて、ラボ内の共通言語は英語でした。私がどう自己紹介したのか、もはやいっぱいいっぱいで記憶がないのですが、恐らくその時は日本語で許してもらった気がします。海外旅行すらろくに行かずに野球ばっかりしていた私の英語力など、すでに小学生レベル。ミーティングやディスカッション、勉強会は全部英語でやると聞き、私の中の後悔モードが発動した瞬間でした。
「これはとんでもないところに来てしまった…」
でもそんなのはまだ序の口だったんです。
「で、ここに来るまでどんなことを勉強してきたの?日本語で良いから発表してみなさい」とボスから問われても、「えぇっと…」
滝のような汗が出るばかり。なぜなら読むには読んだ英語論文は、何が書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。内容を理解するのに必要な知識や経験が圧倒的に足りていなかったのです。今になって分かるのですが、基礎研究で使われる手法や仕組みはある程度決まっていて、高度な研究でも基本はその応用です。自分で実験をやり始めて初めて、やったことのない内容でも大体どんなことをしているのか理解できるようになりました。コロナ禍で一般の方でも耳にするようになったPCRなんかは、大学1回生の教養授業で教わったはずですが、サボってグラウンドでバッティング練習をしていた自分を今更恨んでも後の祭り。ここから私の地獄の日々が始まったのです。
■1000本ノック
新生活が始まって2週間ほど経ったある日。私はボスの席まで呼び出されました。
「あなたこの2週間、いったい何をやってたの?」
まさか何もやってませんとは言えず、しどろもどろになる私。
ボスは大きくため息をついたかと思うと、私にこう言い放ちました。
「あなた本当ならクビにするんだけど!」
そりゃそうでしょう。貴重な研究員のポストを1つ潰して雇った奴が何もできないただの給料泥棒だったんですから。大学を出たばかりの研究者の卵を雇った方がよっぽど戦力になります。でも推薦してくれた私の教授の手前、さすがに本当にクビにするわけにはいかなかったのでしょう。続く言葉で、
「と言っても帰るところもないでしょうから、明日からわたしの言う通りやりなさい!」
私はこの一言で完全に目が覚めました。どこかお客さん気分でフワフワしていた自分、あまりに無力な自分がただただ恥ずかしく情けなく、思わず涙が出たのを覚えています。
振り返ってみると、ボスは初めから程度の差こそあれこうなることは予想していたのではないでしょうか。その上であえて厳しい言葉をかけることで、私の性根を叩き直そうとしてくれたように思います。
それからしばらくはひたすら基礎手技の繰り返し。ピペットマン(R)という一定量の液体を正確に測り取るスポイトのような器具を使って、吸い取ってはチューブに移して重さを測り、記録します。理論上は毎回同じ重さになるはずですが、私がやるとバラつきます。最初は水、続いて粘稠のグリセリン。それはまさに落合監督に鍛えられたアライバの1000本ノックのようでした(そんなええもんちゃうか)。2週間ほど続けたでしょうか?バラつきが大分無くなった頃、ようやくボスからOKがもらえました。
私の隣の隣の席にKさんという同い年の女性研究者がいました。Gastroentelogyという消化器分野では超一流の科学雑誌に論文を通すほど優秀な研究者でしたが、この人が私の東京時代のまさに大恩人です。最低限の基礎練習はクリアした私でしたが、いくら実験手法の教科書を読んでも実際に出来るはずもなく、細かい実験手技はもちろんのこと、それこそラボのルールから人間関係まで、手取り足取り教えてもらいました。Kさんなしではあっという間に心が折れていたでしょう。先述の通り、当時のラボには大きく2つの研究グループがあり、お互いライバル関係でピリピリしていたのですが、Kさんの周りには自然とグループの垣根を超えて人が集まり、ムードメーカーのような存在でした。皆で一緒に勉強会をしたり、マラソン大会に出たり、ビアガーデンに行ったり。全てKさんの音頭で実現したものです。なんとラボ在籍中にKさんの結婚式にも招いて頂きました。Kさんは私がラボを離れた後に、とある大学の教員として移籍されましたが、2人のお子さんの子育てをしながら、今でも活躍されているようです。ボスが定年退職されてラボがなくなってしまったので、年賀状のやり取りぐらいしか出来ていませんが、いつかまたお会いして昔話に花を咲かせたいなぁなんて思っています。

ビアガーデンにて。私の向かって左がラオス人のパーさん、右がお世話になったKさんです。
波乱の幕開けとなった新生活。これでは先が思いやられます。私の研究生活は一体どうなるのでしょうか? <つづく>