前回はようやく始まった私の基礎研究生活の序章についてお話しました。慣れない環境の中、四苦八苦しながらの毎日が続きます。
■研究テーマ
さて、ボスから私に与えられた研究テーマは「食事の刺激が消化管にどのような影響を与えるか」でした。実は消化管、特に小腸や大腸は常に生まれ変わっています。古い粘膜細胞は剥がれ落ちて管腔内(腸の中)に捨てられ、粘膜の下から新しい細胞が現れる、イメージ的にはサメのように新しい歯がどんどん下から生えてくるような感じでしょうか。これを細胞回転と呼びます。古い細胞には癌化などの異常なスイッチが入りやすくなっているので、それを淘汰する(捨て去る)ことで癌細胞の発生を未然に防いでいるという訳です。人間の身体は本当によく出来ていますね。ボスはこの仕組みに着目して、消化管に入ってきた食物や栄養の刺激が、細胞回転にどのような影響を与えるのかを調べるように私に指示を与えました。我々の分野の基礎実験は大まかに、動物を使うもの(in vivo)と、細胞を使うもの(in vitro)に分けられます。私が担当した実験は主にマウスを使うvivoでした。いわゆるモルモットですね。他にはラットもよく使いますが、ラットはネズミとは言え初めて見るとちょっと引くぐらい大きいので、可愛いのは圧倒的にマウスの方です。マウスにも色々種類があって、実験内容に合わせて使い分けるのですが、私が使っていたのは白と黒の2種類。見た目よろしく、白いのは大人しくてとっても可愛い一方、黒いのは気が強くて凶暴です。油断すると手袋の上からでも血が出るぐらい思いっきり噛まれるので、慣れないうちはビクビクしながら捕まえてました。そりゃ無理やり得体の知れない液体を飲まされたり、お尻から入れられたりするんですから、向こうも必死ですよね。動物愛護の観点から、こうした基礎実験もなるべく動物を使わないものに置き換えるような流れになってきてはいますが、やはり生体内で実際に起こることをコンピュータやAIで完璧にシミュレーションできるようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。
手始めにマウスたちを、自由に餌を与えるグループと、一定時間餌を抜いてから再び餌を与えるグループの2群に分けて、大腸の粘膜細胞の増殖を見たところ、非常に面白いことが分かりました。なんと一時的に餌を抜いたマウスの方が、制限のないマウスよりも明らかに細胞増殖が盛んになっていたのです。しかも食物繊維が豊富な餌を食べさせると、この変化はさらに顕著になりました。この結果は、食事の刺激、中でも食物繊維が大腸粘膜細胞を増殖させ、一時的な絶食がそれをさらに増幅させることを意味します。この発見が後の成果の礎になるのですが、きっかけを掴むまで迷走することが当たり前の世界の中、手始めの実験でこの事実を掴めたのは非常に幸運でした。週間ミーティングで恐る恐る報告したところ、辛口のボスも「これ面白いじゃない!」と目を輝かせ、この現象がなぜ起こるのかを追究していく方針になりました。この時期から、気のせいかボスの私への当たりも少しマイルドになったような気がします。
それからというもの、この現象の謎を解くため、ボスから指示されるままに数々の実験をこなしていきました。もちろん初めてお目にかかる手技ばかり。そこは前述のKさんがそれこそ手取り足取りやり方を教えてくれたおかげで、徐々に1人で出来ることが増えていきました。どんな分野だろうと、これまでのあらゆる知見(論文など)を元にまず仮説を立て、それを証明するのが研究の根幹ですが、何せ未知の謎を解こうというのですから、そうラッキーは続きません。ビギナーズラック以降は鳴かず飛ばず。結果が出ない日々が続きましたが、不思議と嫌ではありませんでした。それはどこか研修医の日々に似ていて、新しい実験をやるたびに出来ることが増えていく喜びが優っていたからだと思います。まあ呑気な私を尻目に、ボスはやきもきしていたと思いますが。
■WBC危機一髪
そう言えば実験中に肝を冷やしたことがあります。2009年3月23日。その日、私は朝からソワソワしていました。なぜなら第2回WBC(ワールドベースボールクラシック)の韓国との決勝戦があったからです。何食わぬ顔で実験準備をしながら、そおっとベンチ(実験台)の端に携帯をセット、ワンセグ(古!)のチャンネルをWBCに合わせました。幸い、その日の実験場所はボスの席からちょうど死角になる位置。こんなラッキーはありません。私は実験を始めましたが、そのうち視線は携帯に釘付けになってしまいました。何せ試合は1点を争う白熱した展開。瞬く間に私の意識は新宿からロスへ。延長10回にイチローが怒りのセンター前ヒットを放ち、その裏ダルビッシュが三振で締めた瞬間、私は思わず「しゃぁ〜!」と小声で渾身のガッツポーズをベンチの下で繰り出したのでした。ところが次の瞬間、ロスにいるはずの私の視界に突然ボスの姿が!
「岡田さん、どう?細胞取れた?」
私は握りしめた拳を素早く解放し、ワンセグ画面を視線から消し去りながら、
「あ、え〜はい、もうすぐです」 と努めて冷静に答えました。
「そう、頼むわね」
ボスが去った後、素早く携帯をしまってしばし放心。もはや日本が勝った喜びなど吹き飛んでます。
「やっば、マジで終わったと思った…。大丈夫、何とかバレんかったはず」
その後は何事もなく平常の1日が過ぎていきました。そして夜も更けボスも帰宅する時間に。私の席を通り際、
「先に上がるからあとよろしく」
そしてニヤっと一言。
「応援の甲斐があったわね!」
バレてたんかい〜!

痺れたイチローの決勝タイムリー(日テレNEWSから転載)

ラボのベンチ(実験台)。端っこに携帯を隠してました。
苦労や失敗は絶えないながらも、徐々に楽しくなってきた基礎研究の日々。まだまだ続きます。 <つづく>

