院長の生い立ち プレ大学生編

2021年11月24日

前回は私が幼少期~高校生までをどのように過ごしたのかをお書きしました。今回は大学生のちょっと前、編です。

 

1995年1月17日、午前5時46分。

 

大学入試センター試験の2日後だったあの日、私は大学2次試験へ向けての勉強を開始するため、そろそろ起きようかとベッドの上で眠い目をこすっていました。すると突然、今まで聞いたことがないようなゴーっという地響きが聞こえ、それが何かを理解する間もなく、まさしく上下に跳びはねるような揺れに襲われました。私はただベッドにしがみついて振り落とされないように耐えるのが精一杯で、冗談ではなく、当時まことしやかに語られていた「ノストラダムスの大予言」の世界の終わりが訪れたのだと思いました。それは私の人生で「死」を覚悟した初めての瞬間でした。

我が家は低層マンションだったためか、幸い倒壊・圧潰することなく揺れに耐えてくれ、両親、妹、弟の同居家族全員が無事でした。ただ母と弟が寝ていた和室は、母の重量級の嫁入り箪笥がハの字に支え合っており、もしこれが2人の上に倒れていれば命はなかったと思います。強い揺れが起きたとき、母はとっさにまだ幼かった弟をかばうため上に覆い被さったそうです。まさに「母は強し」ですね。のちに弟は「母に潰されて死ぬかと思った」なんて文句を言っておりましたが。

余震が続く中、恐る恐る外へ出てみると、なんとすぐ隣の新幹線の高架が落ち、線路が垂れ下がっているではありませんか。この光景を見た瞬間に、この地震はただごとではないと確信しました。その後の情報によると、甲東園周辺は震度7で、近所でも古い家屋が倒壊して20人以上の方が亡くなったそうです。目の前に広がる光景は、まさにニュースで放映されている映像そのものでした。

これは私の家から徒歩5分ほどの阪急今津線をまたぐ新幹線の高架です(土木学会Web版「行動する技術者たち」より転載)。このような景色があちこちで見られました。

 

甲東園周辺は電気が比較的早く復旧したので、なんとか生活は出来たのですが、水が使えないのが困りました。水を節約するため、トイレは男子たちは外へ出て立ちションです(非常時だったのでご容赦を)。一度、弟を連れて立ちションをしている最中に大きな余震が来て、おしっこを垂らしながらぴゅーっと逃げ出して行ってしまったのには焦りましたね。生活用水は近くのマンションの屋上の貯水槽が壊れて漏れ出てくるのを、バケツで汲みに行って確保していました(これもご容赦を)。

 

こういう状況ではとても受験勉強どころではなく、案の定、その年の大学受験は不合格でした。まあ震災を言い訳にできて良かったねと言う口の悪い人(家族全員!)もいましたが。ただこの震災が「命」というものについて深く考えるきっかけになりました。医師である父の影響で、物心つく頃にはなんとなく将来は医師になるんだと思い、当然のように医学部を受験しましたが、人の命を救う医師を目指しながら、一方でそれまでは命というものに対してもう一つピンときていなかったところがありました。高校生の頃ってエネルギーに満ちあふれていて永遠に生きられるような気がしませんか? 震災でまわりでたくさんの人たちが亡くなったのを目の当たりにし、生きたくても生きられなかった方々の無念や、残されたご家族たちの悲しみが、私に命の大切さを教えてくれたような気がします。そしてこれまでのなんとなく医師になりたいという漠然とした想いを、自らの手で命を救うことができる医師に絶対になるんだという強い覚悟へ変えることが出来ました。

 

阪急電車はストップしてしまい、自転車で高校まで行かざるを得ないなど、卒業間近の通学は大変でしたが、なんとか無事に卒業式も終えることができ、いよいよ浪人生活が始まりました。これまでの勉強不足がたたり、結局、2年間の浪人生活を経験するのですが、予備校で知り合った仲間とは未だに家族ぐるみの付き合いがあります。それぞれ違う道に進み、お互い家族持ちになっても、苦労を共にした仲間の絆というのはいいものですね。回り道にはなりましたが、振り返れば浪人という挫折を経験できて良かったと思っています(決して強がりではありません)。まあこんなことを言うと親には怒られますが・・・浪人生活を支えてくれた親には本当に感謝しています。

 

そして1997年4月、私は大阪医科大学 医学部へ(なんとか)入学しました。

次回はいよいよ大学生編です。


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