院長の生い立ち 大学生編(後編)

2022年02月12日

前回は幼なじみとの突然で悲しい別れについて書きました。

 

考え方を根底から変えると決心した私ですが、その結果、各所で事態が好転し始めました。

今回はその中でも私が最も嬉しかったことについて書きたいと思います。どうしても話題が野球のことになってしまいますがお許しください。

 

実は医学部にも高校生の国体のような体育大会が夏にあります。その名も「西日本医科学生総合体育大会」略して「西医体」です。ちなみに「東日本医科学生総合体育大会」もあり、これは「東医体(とういたい)」と言います。そして西医体と東医体の成績上位校が対決するのが「全日本医科学生体育大会王座決定戦」=「全医体」です。西医体で言うと、南は沖縄、東は金沢まで44大学ほどのあらゆる運動部が1カ所に会して、トーナメント形式で優勝を争うという大会です。Wikipediaによると何と大会参加者数は国体に次ぐ規模だそうです。野球部においてはさながら甲子園のような扱いで(もちろんレベルは到底及びませんが)、6回生がこの大会で引退することもあり、西医体のためだけに1年間練習に励むと言っても過言ではありません。毎年開催場所が変わるのですが、医学部は6年間ありますから、西日本のいろんな所に行けるのも楽しみのひとつです。私の時は、宮崎→大阪→福井→島根→北九州→岐阜という感じでした。近年はカリキュラム変更により、同時期に研修予定病院の採用試験が同時期に重なることもあり、5回生で引退する部もあるようです。6回生までやった身からすると可哀想な気もしますが、これも時代の流れでしょうか。

 

さて、前回書いたとおり、1999年は西医体で初戦負けし、秋のリーグ戦では創部以来初めて2部へ降格するという憂き目にあいました。当然OBの先輩方からはそれはもうボロカスにたたかれ、我々は悲壮な覚悟をもって1学年上のキャプテンを中心に2000年のシーズンに臨みました。

そして迎えた春のリーグ戦、2部ではありましたが我々は全勝優勝して無事に1部へ復帰、その勢いのまま西医体へ乗り込むことになりました。実は前年(1999年)の西医体優勝校は奈良県立医科大学で、1部で幾度となく対戦してその実力のほどは分かっていたので、「奈良医で優勝できるなら俺らもいけるんちゃうか?」と不思議な予感がよぎったのを覚えています。

 

そしていよいよ第52回西医体が開幕しました。

 

出雲大社の近くのホテルから、何台かの車に分乗して毎日球場に向かうのですが、車によって験担ぎのテーマソングが決まっており、我々の車内はBON JOVIの “It’s my Life”でノリノリ! まだなかやまきんに君が売れる前です。一方、隣の車では「さだまさしメドレー」がかかり、会場へ着くと全員死んだ魚の目をして降りてきてました。なぜにその選曲?・・・

 

そういえば本番前日に球場へ下見に行った際に、隣接する公園で軽くランニングもしたのですが、とある悪い先輩がフィールドアスレチック(丸太橋とかターザンロープとかあるやつです)があるのに気づき、奇声をあげながら遊び始めてしまいました。それを見て他の部員たちもハイテンションで遊具に興じていたところ、同級生がターザンロープで滑り降りた先に、鬼の形相をしたキャプテンが仁王立ちしており、続いたものども一網打尽に全員捕獲されてしまいました。彼曰く、滑り降りている途中で鬼の存在に気づいたものの、途中で手を離す訳にもいかず、そのまま鬼の懐に飛び込んでしまったそうです。その後のストレッチの時の雰囲気といったらもう・・・でもそのせいで浮かれた雰囲気は吹き飛び、ピリっと引き締まった気がします。後日談で、その悪い先輩は「締めるためにわざとやってん」と言っていましたが、あの猿のような嬉々とした顔からは到底信じられません。ちなみに悪い先輩は副キャプテンでした。

 

そのおかげもあってか、我々はあれよあれよという間に勝ち進みました。

2回戦の後、高校野球にも参加されている、あるボランティア審判員の方から、「君ら優勝するんちゃうか?」と言われたことを覚えています。そのときはとっさに「いやいや、ないっすよ」と返したのですが、目の肥えた方には何か感じたものがあったのかもしれませんね。

 

西日本では関西勢は比較的強豪だったのですが、なんといっても強敵は宮崎医科大学でした。なぜなら医学部なのにスポーツ推薦があったからです。翌2001年、我々はベスト8で宮崎医大に敗れたのですが、そのチームには甲子園経験者が3人もいました。ほぼ反則です。2000年のトーナメントでは我々と同じヤマだったので、勝ち進めば激突するはずでした。

ところが我々に追い風が吹きました。なんと岡山大学が宮崎医大を1-0で下したのです。当時、岡山大学にはアンダースローのすごいエースピッチャーがいて、強打の宮崎医大を見事に完封。準決勝で岡山大学と対戦することになりました。以前から岡山大学とは1年おきに交流戦をやる仲で、お互い手の内は知り尽くしています。私は直前の交流戦でそのエースから3塁打を打ったのですが(これ自慢です)、本番では3三振とけちょんけちょんにやられました。うちのエースも踏ん張り、試合は緊迫した投手戦になりましたが、6回生の先輩が、3ボール2ストライクから見事に決勝スクイズを決めて勝利をつかむことができました。ちなみにその試合の9回の守りで、1アウトから4-6-3の美しいゲッツーを決めて試合を締めたのは、セカンドを守っていた当院お隣の逆瀬川かとう整形外科 加藤勘明院長です!

 

激戦を制した我々は、決勝戦では福井医科大学に危なげなく完勝し見事25年ぶりの優勝をつかみ取りました。試合後の夕暮れ迫るスタンドで泣いたことは忘れられません。人生でうれし泣きしたのはこのときと、我が子が生まれたときだけです。

 

その後の全医体では、決勝でこれまたスポーツ推薦があった弘前大学(ここも甲子園球児3人!)に敗れて準優勝となりましたが、この年に手に入れた金と銀の2つのメダルは私の一生の宝物になっています。

母校グラウンドにて。前列右から2人目が私、その左隣が加藤先生です。

こう言うと感傷的だと思われるかもしれませんが、この西医体優勝は野球好きだったM君が力を貸してくれたおかげだと思っています。当時何事に対しても後ろ向きだった私を、身をもって励ましてくれたのだと思っています。この成功体験がなければ、おそらくまた元のネガティブな自分に戻っていたでしょう。私の人生を変えてくれた彼には感謝しかありません。私の中のM君はあのときのままですが、彼も生きていれば45歳、お互い家族の話なんかで盛り上がっていたかもしれません。いつかまた会えた時に、この話をしてみようかな。

 

気づけば、後編と言いながらついつい西医体の話だけになってしましました。まあそれだけ嬉しかったということでご容赦ください。

次回こそ大学を卒業します(次回は何編にしたらいいんやろ?・・・)。 <つづく>


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