院長の生い立ち 大学生編(中編)

2022年01月18日

しばらく間が空いてしまいましたが、今回は大学生編、中編と題してお送りしたいと思います。

 

前回は野球部の生活についてお書きしましたが、もちろん医学生の本分は勉強ですので、まるっきり野球ばかりしていた訳ではありません(多分・・・)。現在は大学1年生(1回生)から専門課程があるようですが、当時は1回生は「教養課程」と言って、数学や物理、生物、化学、ラテン語などの専門以外の授業が中心で、2回生から医学の実習が始まる体制でした。そして学年が上がるにつれ、より臨床に近い、ベッドサイド実習などを経験することになります。

 

低学年の実習でのハイライトは何と言っても解剖学実習です。これは本物のご遺体を解剖させていただくことによって、あらゆる医師に必要不可欠な人体の構造を学ぶ、大変重要なものです。解剖学実習は、その時の光景を今でもはっきりと思い出せるほど、私に大きなインパクトを与えてくれました。一般の方はまず目にすることがないと思いますので、実際にどういうものなのか少し解説したいと思います。

 

解剖実習には人体モデルではなく本物のご遺体を使わせていただくのですが、これは「献体」といって、故人の奇特な遺志に基づき、ご遺族からご遺体を大学へ提供していただく制度を利用しています。リアルな人体を使った解剖は、やはり説得力が違います。我々も自然と身が引き締まり、普段はふざけてばかりの奴もこの時ばかりは真剣なまなざしに。献体してくださった方の想いが、そのお身体を介して我々に伝わったからかもしれません。

 

実際の解剖は、解剖学の教科書のイラストとにらめっこしながら、ご遺体と照らし合わせて、実際の人体ではどうなっているのかを確認する作業の繰り返しです。それこそ頭の先から足の先まで、余すことなく解剖していきます。イラスト通りの組織が初めて目の前に現れたときは感動したのを覚えています。数ヶ月に及ぶ地道な実習ですが、私はひとときも苦に感じることはありませんでした。

 

こうして夢中になった解剖実習ですが、ひとつだけ困ることがありました。それは目にしみるほどの強烈なホルマリン臭です。防腐のためにご遺体はホルマリンにつかった状態になっています。母校の実習室は4階にありましたが、実習が始まると2階にいても分かるぐらい臭気が漂います。そして白衣のみならず全身にしみついた臭いは実習期間中は取れることがありません。これには参りました。今でもホルマリンの臭いを嗅ぐと、解剖実習のことを思い出します。

 

生々しい話で恐縮ですが、我々はこのような貴重な体験を通して人体の仕組みを理解し、医師になってから生身の患者さんの治療に生かしています。実は私の祖母も献体をしましたが、遺骨が帰ってくるまでに2年以上かかりました。献体にはご遺族の理解も必要なのです。改めて献体をしていただいた方々やご遺族に深く感謝すると共に、この場をお借りしてご冥福をお祈りしたいと思います。

 

ありがたいことに、献体の登録数は右肩上がりに増えているそうです(実はこれには少し裏もあるそうなのですが・・・)。

 

将来的にはARを使った仮想解剖実習などに変わっていくのかもしれませんが、自分がそうであったように、まだどこかふわふわしている医学生に、医師とは人の命を扱う職業なのだとガツンと自覚させる最初のステップでもあり、今後もぜひ続けていただきたいと願っています。

 

 

さて、そんな学生生活を送りながら3回生になりました。その年はやることなすことうまくいかず、野球部では私のせいで夏の大会で初戦負けのうえに秋のリーグ戦で2部落ち、定期試験では追試になるし、私生活でも彼女にふられ、まったくろくなことがありませんでした。元来私はマイナス思考で、ひとつうまくいかないことがあると全部そのせいにしたくなるような性分でしたので、鬱々としながら1999年を過ごしていました。

 

すると年末が見えてきた11月初旬、大学の授業中に突然私の携帯に着信が入りました。それは母からでした。めったにかかってこない母からの電話に胸騒ぎを覚えながら休み時間にかけ直すと、

 

「いい?びっくりしないで聞いてね。M君が亡くなったって・・・」

 

その後の記憶はあまりありません。覚えているのは棺の中のM君の白く透き通ったきれいな顔、お通夜の会場脇の公園で同級生に肩を抱えられながら泣きじゃくったこと、それだけです。

 

M君は同じ甲東園に住んでいた幼なじみでした。小学校こそ違いましたが、同じ六甲中学へ進み、彼が野球部に途中入部してきたことから仲良くなって、最寄り駅が一緒なために帰り道はいつも一緒、冬の自主練習ももう一人の幼なじみと常に3人で切磋琢磨していました。他の友人達と共に行ったママチャリでの琵琶湖半周ツーリングもいい思い出です。彼は東京の大学へ進んだのですが、何を思ったか東京から単身、1週間以上かけて自転車で帰省するようなお茶目で愛すべきやつでした。彼も野球には人一倍熱い男で、お互い大学へ進学後も、時々会うたびにキャッチボールをしながら野球談義に花を咲かせる時間が私は大好きでした。その年の夏にも会ったばかりだったというのに・・・なんで・・・

 

私は激しく自分を責めました。自分がネガティブなことばかり考えるからこんなことが起こったんだと。M君が亡くなったのは俺のせいや、と。

今振り返るともちろんそんな訳はないのですが、そのときはそうとしか考えられませんでした。いや、そう考えることでつらい現実を受け入れようとしていたのかもしれません。

そしてそれならば、「無理矢理にでもポジティブに考えるしかない!」半ば開き直るように私はそう決意したのです。

 

年が明けてからはとにかく些細なことでも前向きに考えるようにしました。電車にぎりぎり間に合えば「ラッキー!今日はツイてる!」、投げた紙くずがゴミ箱にスポッと入れば「俺、天才ピッチャーやな!」、朝降ってた雨が帰りに上がっていたらまた「ラッキー!今年はツイてる!」 こんな感じです。

すると不思議なことに、いろんなことが好転し始めたんです。

それについてはまた次回にご紹介しましょう。

 

2022年元旦。彼の地より神戸の町並みを望む。

M君は今、神戸の街と海を見下ろす場所で眠っています。神戸が好きだったM君のためにお父様がその地を選んだそうです。

早いものであれからもう20年以上が経ちました。

毎年元旦に彼が好きだった日本酒を持って、近況報告をしに行くのが私の1年の始まりになっています。 <つづく>


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