院長の生い立ち 研修医編(その1)

2022年03月28日

なんとか無事に医師国家試験に合格し、希望に胸を膨らませた研修医となった私に待ち受けていたのは甘くない現実でした。

 

時間を少し元に戻しましょう。

現在は医学部を卒業すると、研修医たちは2年間、特定の科に所属することなく、短期間ずついろいろな科を回りながら研修するというシステムになっています。これをスーパーローテートと呼びます。例えばあるときは内科で、またあるときは整形外科で、といった感じです。大学病院と一般病院で細かい違いはあるものの、大体同じような仕組みを取っています。いろいろな科を回ったうえで自分の最も興味のある専門性を選べるというメリットがある反面、最初から志望する科が決まっている人にとっては若干遠回りになるというデメリットもあります。もともとは、専門性に偏りすぎて「専門以外は診られません」という医者が増えすぎて世間から不満の声が出始めたために、「総合診療医」を育てようとした厚生労働省の思惑から始まったシステムですが、たった数ヶ月ずつお客さんのように各科を回るだけで診療出来るようになる訳もなく、いかにもお役人さんが考えつきそうな発想だなとは思います。

ただ、後輩の先生たちと接すると、やはり他科の知識は豊富で逆に教えられることもあり、そういう点ではまったく見当違いというわけではないのかもしれません。とはいえ、知識があるからといって診られるとは限らないのが医学の世界の難しさでもありますが。

一方、私が卒業する時はまだこのシステムはありませんでした(1学年後輩から始まりました)。つまり大学を卒業する時点で自分がどの専門分野(科)に進むか決めなければならない、ということです。

 

これには悩みました。

 

何せ、この決断で自分の医者人生が決まるわけですから。もちろん途中で転科も出来ますが、転職と一緒で簡単ではありません。

私が医者になった2003年当時は、まだまだ就職先は大学病院が主流で、一般病院へ就職する人は稀でした。一般病院に今ほど研修システムが整っていなかったせいでもあります。また地方出身者以外はよほどの理由がない限りは他大学へ進むこともありませんでした。よって自然と就職先は母校のいずれかの科の医局、ということになります。

余談ですがこの場合の「医局」というのは「教室」や「講座」とも呼ばれ、専門科を意味する大学特有の組織です。たくさんの科の医局が集まって大学組織が構成されています。専門科の教授を筆頭にピラミッド構造になっており、研修医はその最下層に位置します。会社で例えるなら、大企業の一部門といったところでしょうか。ただし教授には人事権がありますから、「部長」より「社長」に近いかもしれません。

 

私は学生時代から「消化器」には興味がありました。その理由は「わかりやすい」からです。消化器分野は検査が多いのですが、多くが画像を見て診断し、治療を行います。例えば消化管内視鏡検査で「そこにポリープがあるから切除する」、というように、目に見えるものを相手にする単純明快さが私に合っていると思いました。また体育会系だったせいか、実際に手を動かす検査が多いところも魅力的でした。机の上で検査データとにらめっこしながら、ああでもないこうでもない、と考え込むのは苦手だったんです。

そうしたことから挙がった候補は、「消化器内科」「消化器外科」「その他の内科」「麻酔科」でした。「麻酔科」は麻酔科出身の父の影響です。当時から将来的には父の跡を継いで開業医になりたいと思っていましたので、開業医の先輩である父に相談したところ、「これからは開業医でもよそと差別化できるような武器を持ってないと厳しいぞ」というアドバイスをもらいました。

 

私は考えました。

「開業医で持てる武器ってなんやろう?」

 

武器というと何やら物騒ですが、要はいわゆる「普通の町医者さん」にはない「売り」ということです。そこで真っ先に思いついたのが「消化管内視鏡」でした。つまり胃カメラ、大腸カメラです。内視鏡検査のいいところは、補助スタッフは要るものの基本的に一人で診断から治療までできることで、まさに開業医にうってつけの検査と言えます。もともと消化器分野に興味があった私にピッタリはまるような予感がしました。消化管内視鏡検査ができる科は「消化器内科」と「消化器外科」の2択です。「外科」にも惹かれましたが、せっかく手術が上手にできるようになっても開業すると出来なくなるのは寂しいですし、当時、内科の内視鏡手術技術の進歩がめざましく、これまで外科でしか出来なかったような治療が内科でも出来るようになってきていたことから、悩んだ末に「消化器内科」に進むことに決めました。幸い、野球部の先輩方も医局に多くおられて、誘って頂いたのも大きかったように思います。

卒業間近の実習にて。後列左から2人目が私、最右がお隣の加藤院長です。(プライバシー保護のため一部加工しています)

そして私は大阪医科大学 第二内科へ入局しました。

 

研修医生活初日。緊張の面持ちで医局へ入ると、そこには怖そうなおじさん達がいっぱい。中にはヤ○ザと見まがうお人も。ん?この光景はどこかで見覚えがあるような? あ、そうか野球部入部の時と一緒か! つい最近まで最上級生で偉そうにしていた身分が、一気に最下層へ転落したことを自覚した瞬間でした。

 

我々1年目の研修医には3年目の先輩医師が指導医として付いてくれて、あらゆることを教えてくれました。それこそ「あの先生は夜中に起こすとヤバい」とか「あの病棟は看護師さんかわいい」とか。こう言うとちゃんと働いてないみたいですが、もちろんそんなことはなくて、エコーを見ながら鮮やかに腹水を抜いたり、見えない血管に一発で点滴針を入れたりする姿が、3年目ともなればこんなことも出来るようになるのかと、とてもかっこよく見えたのを覚えています。

その3年目の先輩にお一人女医さんがいたのですが、ある必殺技を持っていました。それは・・・

「先生、一生のお願い!(ハート)」攻撃。

その先生は何か頼みにくいことがあると、何のためらいもなくこのウィニングショットを繰り出します。その威力はすさまじく、普段はめちゃめちゃ怖い講師の先生でも「しゃあないなぁ」とか言いながら目尻を下げて引き受けていました。同じことを我々が頼んだら怒られるのに・・・大人って理不尽ですね・・・

 

1年目の研修医は医師免許を持っているだけで、医療界では赤子同然の存在です。分からないことだらけで右往左往していた私にとって、心の支えはやっぱり同期の存在でした。私の同期は私以外に3人(途中から1名転科してきて4人に)いましたが、初めてのことを教え合ったり、怒られたことを共有したり、また一方で良きライバルとして「同期には負けんぞ」と切磋琢磨したりしていました。時には泣き、時には笑い、仕事終わりに居酒屋で熱く語り明かしては翌朝後悔していたことが懐かしいです。このあたりは医療ドラマの世界と同じかもしれません。

あれから20年が経ち、子育ての方へシフトしたり、関連病院で出世したり、まだ大学で頑張っていたり、それぞれが別の道に進んでいますが、これまで培った同期の絆は一生続く宝物だと思っています。

 

さて長くなりましたので今回はこのあたりで。

次回は研修医時代の苦労話や、記憶に残る患者さんたちとの出会いについて書きたいと思います。 <つづく>


タイトルとURLをコピーしました