院長の生い立ち 大学生編(前編)

2021年12月22日

前回は阪神淡路大震災のことについて書きました。今回は大学生編、前編です。

 

1997年4月、私は大阪医科大学 医学部に入学しました。

 

大阪医科大学は阪急高槻市駅のすぐ側にある、私立のもと単科大学で、現在は大阪薬科大学と合併して名前が大阪医科薬科大学に変わっていますが、場所は同じです。当時は略して「大医(だいい)」と呼ばれていましたが、今はなんと呼ぶのでしょうね?「だいいやく」? なんか呼びにくいですね。患者さんからよく大阪大学「阪大(はんだい)」と間違えられるのですが、あえて否定せずにそのまま適当にスルーしたりします。ご存じの通り、あちらは国立で全国屈指の超難関校ですから、「間違われてラッキー!」てな感じです。阪大の先生方、すみません。

 

実は私の祖父も父も大阪医大出身です。祖父はまだ高槻医専と呼ばれていた時代の確か1期生だったと思います。祖父や父の背中を越えたくて、本当は国公立、特に地元の神戸大学を目指していたのですが、前回お書きした通り、これ以上の浪人は許される訳もなく、大阪医大に進むことに決めました。でも実際入ってみると、私立特有のおっとりした雰囲気が私には居心地が良く、開業医の子息が多いことから、皆と価値観も共有しやすくていい環境だったと思います。父と共通の話題もでき、父が学生時代に通っていた「多津屋」という美味しいカツカレー屋さんの名物女将さんは、宝塚歌劇出身だったなんていう裏話も聞かせてもらいました。私が学生の頃はまだその女将さんが現役で、私が「ダブルカツカレー」を頼んだところ、「もっと食べなあかん!」と怒られて、勝手に「トリプルカツカレー」が出てきた、そんな古き良きお店でした。今はとっくに代替わりされてますが、お店は今でもまだありますので、皆様もぜひ一度行ってみて下さい。

 

さて余談が長くなりましたが、大学入学です。

 

総合大学と同様に、単科大学の医学部にも小規模ながら部活動があります。当時の大阪医大は学生スポーツが本当に盛んで、いずれかの運動部に属さないと、「はみご」か「オタク」のレッテルを貼られるほどでした。どうも他大学から「大阪医科体育大学」と陰口をたたかれていたようです。

入学式のために講堂に集まり、緊張の面持ちで座っていると、各運動部のユニフォームを着た先輩方が続々と講堂に入ってきて、勧誘合戦を繰り広げ始めました。事前に高校でどのクラブに属していたか調べが済んでおり(なぜかすでに名簿が出回っている)、特に同じ高校出身者は狙い撃ちです。医学部は6年生までありますから、高学年のいかついおっさんが机の前まで来て、「○○君、△△部に入ってくれるやんな?」とか言われると、思わず「はい!」ってうなずいてしまう危険があります。もうヤ○ザさながらです。1学年100名ほどしかいませんので、争奪戦になるんですね。そして入学式の後、勧誘という名の飲み会に連れ出され、甘言巧みに誘われて落ちていく仕組みです。正式入部して初めての練習で、先輩達の本性を知った時にはもう手遅れということも知らずに。

私は小・中・高校とずっと野球ばっかりやってきましたが、高校時代のチームは軟式ではあったものの、かなり能力の高い選手がそろっていて、練習試合で地区の有力校相手に完封勝ちするなど、ひょっとするとと思わせるチームでした。結局最後の夏は、のちに全国準優勝する神戸弘陵相手に1-4で敗れたのですが、試合中にあの強豪校の神戸弘陵の監督さんが、「いいか、この試合が勝負所やぞ!」と必死で選手にはっぱをかけているのを見て、もっとやれたんじゃないかという不完全燃焼の思いがずっと残っていました。そんな訳で大学で野球部を選ぶのに特に迷いはありませんでした(美人な先輩がいたヨット部に浮気しそうになりましたが)。

高校時代の院長です

 

大阪医大の野球部は名門で、過去にはプロ野球からスカウトが見に来たという伝説(でも実話!)があるぐらいです。私の入部当時も部員は30名以上おり、医学部に勝つのは当たり前、時には全学(医学部以外の大学)相手でも打ち勝ってしまうようなチームでした。でもすごいのは、レギュラー全員が野球経験者ではないというところです。大学から野球を始めた先輩が、特大のホームランを放って全学を黙らせる、私が求めていた環境がそこにはありました。

そして試合の後には必ず飲み会があります。ザ体育会系の部活でしたから、下級生は飲んでナンボ。先輩と目が合うだけで飲まされるという、医学部とは思えない、今ならアルハラ一発アウトな雰囲気でも、不思議と私は苦痛ではありませんでした。まあ私が単にお酒が好きなだけかもしれませんが。酔い潰れて公衆電話の中で一夜を明かしたなんてこともありまし、ある後輩は空腹に耐えかねて先輩より先に食べた枝豆をおしぼりの下に隠していたら、目ざとい先輩に見つかって隠した枝豆の数だけ飲まされてました(今はそんなことしてませんよ)。練習も厳しくて、まだ実習中なのに先輩が教室までユニフォーム姿で迎えに(拉致しに)来ることも。実習担当の先生も見て見ぬふりをしてくれるような良い時代でした。時には笑い、時には泣き、時には喧嘩しながら共に汗を流した先輩方、同期、後輩たちとのつながりは、今、私のかけがえのない財産となっています。実際、当院開院の際にも多くの野球部OBの方々からアドバイスやサポートを頂きました。この場をお借りして感謝いたします。

 

まだ入学したばかりなんですが・・・長くなりましたので今回はこのへんで。

次回は大学生編、中編をお送りしたいと思います。

私の人生観を変える、あるつらい別れを経験することになるのですが・・・


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