院長の生い立ち 研修医編(その3)

2022年06月18日

今回は研修医編の続きです。

いきなり下世話な話から。

 

皆さん、「お医者さんは給料いっぱいもらってええなぁ」と思っていませんか? 実際はどうなんでしょうか? 研修医時代の私に聞いてみましょう。

 

「ぶっちゃけ、月給はどれぐらいですか?」

「やばいです。下宿の家賃払ったらほとんど残りません」

 

嘘だと思うでしょう? これは本当です。2003年当時、大学病院の研修医の月給はサラリーマンの初任給の1/3程度。それでも数年上の先輩からはうらやましがられたものです。まさにブラック企業。でも当時の大学病院は全国どこも似たり寄ったりで、これが当たり前だったのです。これでは到底生活出来ませんから知恵を働かせなければなりません。

 

まず、昼食、夕食は医局の先輩におごってもらいます。我が医局では、当日の当直担当の先生が、病院に残っている研修医の分もまとめて出前を頼むという風習がありました。これは今でも続いていて、大学勤務時代には私もおごる方の立場になって、たまにKYな研修医が特上にぎり寿司セットなんかを頼んだ日には、「ええよええよ」と顔で笑いながら、消えていく万札を見て心では泣いてましたっけ。

それからお風呂は極力病院で入って帰ります。放射線科の奥にある職員用のお風呂はラドン温泉なんて言われてました。幽霊が出るともっぱらの噂でしたが、幸い私は遭遇しませんでした。

 

帰ったら寝るだけの生活で食費や光熱費が浮くと、下宿も格安のワンルームでしたから、案外なんとかやりくりできるものです。とは言え、やっぱり普通ではないですよね。よく「おれらの自給はマクドのバイト以下や」なんて愚痴をこぼしていたものです。その後、他大学で研修医の過労死事件などがあってからは、国の指導によって研修医の待遇はかなり改善されました。今や研修医の月給はうなぎ登りで、我々の頃とは隔世の感があります。うらやましい。ちなみに経験年数を経ると、大学病院勤務に加えて、関連病院の日勤や当直バイト勤務が出来るようになるので、大学病院の先生はもっぱらそれで生計を立てています。

 

「白い巨塔」などの医療ドラマでは下のような教授回診(総回診)のシーンが良く出てきますが、教授回診は決してドラマの世界だけではなく実際にもあります。教授を先頭に医局員がずらっと続いて各病棟を練り歩いてゆく様は、まさにドラマ通りです。ご一行に先回りして病棟へ駆け込み、担当患者さんのカルテやフィルム一式をすべて用意するのは研修医の役目。そして患者さんの前で研修医の私が教授に、病名や治療経過などを説明するのですが、つたないプレゼンに教授からの厳しいダメ出しが入り、しどろもどろでひたすら「すみませんすみません」と謝りたおしていると、患者さんから後で「先生、頑張れ!」と励まされるという、まあなんとも情けない経験もしました。

私が好きな唐沢版「白い巨塔」の回診シーン(動画.comより転載)

あるとき、私の同級生がプレゼンしていると、その顔をじっと見ていた教授がおもむろに、「おい、お前黄疸が出てるぞ」と。

私は心の中でつっこみます。

(いや、こいつはもともと顔色が悪いんです…)

それを聞いた患者さんが泣きそうな顔で、「先生、私大丈夫ですか?」

すると教授は、「あなたは黄疸ありません。あるのはこいつです。」

同級生も泣きそうな顔をしているし、周りは笑いをこらえるのに必死でした。嘘のような本当の話です。

 

さて、医師にとっては病を治し、命を救うことが最大の命題ですが、残念ながら現代の医療ではどうしても救うことのできない患者さんがいることもまた事実です。私が医者になって初めてお看取りした患者さんは、まだ40代の女性でした。その方はスキルス胃がんを患っており、私が担当した時にはすでにステージIVの状態で抗癌剤治療を受けておられたのですが、担当になった挨拶のために緊張しながらお部屋に入ると、20歳そこそこの娘さんと一緒に仲良く談笑されており、とても優しい笑顔で「よろしくお願いしますね」と返してくれました。一見、本当にステージIVなのかと思うぐらい穏やかな様子でしたが、抗癌剤の副作用で毛髪が抜けてしまった頭にかぶっている毛糸の帽子が、今まさにスキルスと闘っていることを物語っていました。当時は今ほど良い薬剤もなく、抑えきれない抗癌剤の副作用に苦しみながらも、「まだまだ娘のためにも死ねないからね」と笑顔で頑張る患者さんに、逆に私の方が励まされる一方で、科学的なデータが悲観的な未来を予想していることを言えない後ろめたさを抱えながら接していたことを覚えています。

現実は残酷です。データが裏付けた通り、いよいよ抗癌剤も効かなくなり、これ以上積極的な治療ができなくなった患者さんは緩和治療へ移られました。お腹には腹水がたまり始め、1日おきに針を刺して抜く日々。徐々に衰弱が進むお母さんを娘さんは付きっきりで、それは甲斐甲斐しくお世話されていましたが、とうとう最期の時を迎えることになってしまいました。ご家族が見守る中で安らかに逝かれた患者さんは、今思うと幸せだったのかもしれません。ですが当時の私には、思い入れのある患者さんを亡くしたつらさと、何も出来なかった自分の無力さと、もっと何かできたんじゃないかという後悔とが入り交じり、ベッドサイドで涙をこらえるのに必死でした。

初めての経験でしたが緊張する余裕もなくご臨終の宣告をした後、娘さんは私に向かって「本当にありがとうございました」と深々と頭を下げられました。

一番つらいのは大好きなお母さんを亡くした娘さん自身にもかかわらず、目に涙を浮かべたまま気丈に振る舞われた娘さんの、あの凜とした美しさは、20年経った今でも忘れることはできません。

当時私とそれほど年端の変わらなかった娘さんも今では40代でしょうか。どこかで幸せに暮らされていることを願ってやみません。

 

このとき以来、これまでたくさんの方をお看取りしてきましたが、いつまでたっても慣れることはありません。研修医時代、先輩から「患者さんに対して入れ込みすぎるな」とよく指導されました。患者さんの前で泣くなんてもってのほかだと。「きっとこれから何人も看取ることになるのだから、それでは心が持たないぞ」あるいは、「一番悲しいのはご家族なんだからお前が泣いてどうする」という意味だったのだと思いますが、悲しみに暮れるご家族を前にすると、ついもらい泣きしそうになる時はあります。どう振る舞えばいいのでしょうか? 私にはいまだに正解は分かりません。

 

次回、私が研修医時代に受け持った患者さんで印象に残っている方をもう一人ご紹介したいと思います。 <つづく>


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