院長の生い立ち 研修医編(その4)

2022年07月30日

研修医編はまだ続きます。

 

■急変は夜間に起こる

患者さんの状態が急変するのは不思議と夜間が多いです。夜勤体制でどうしても人手が少なくなりますし、日中に身体に負担のかかる検査や処置を受ける方が多いからだと思います。患者さんの急変に対応するのは当直医の役目です。私が研修医の頃、我が医局では研修医と卒後5年目以上の先輩医師がコンビで当直に入る体制でした(これは今もそうです)。

 

「ピピピ ピピピ」

夜中に突然、ポケベルの音が当直室に響きます。そうです。今や一定の年代以上の方でないとその存在すら知らない、ポケットベル。懐かしいですね。現在、施設によってはスマホにまで進化している医師への連絡手段ですが、当時はポケベルに表示された番号の部署に、近くの電話から折り返すシステムでした。面倒なシステムですが、メリットが一つだけありました。それは気づかないふりができること。ややこしい部署から連絡が入るとひとまずスルーして、あとで訪れた際に、「え?鳴ってましたっけ?ポケベルの調子が悪くて~」としれっと言い訳するという。実際、ポケベルは本当につながらないときがありましたから。ちなみに私はやったことありませんのであしからず。

たばこ臭い当直室(今は当然禁煙!)の2段ベッドの下段で仮眠している私は飛び起きて、室内にある電話を手に、上段で寝ている先輩を起こさないように小声で要件を確認します。たいがいそのまま病棟に向かうことになるのですが、問題は自分一人で判断できないことが起こった時です。特に研修医は勝手な判断は許されませんから、いちいち先輩に確認しないといけないのですが、些細なことで夜中に寝起きの悪い先輩を起こすのは本当に嫌でした。

寝ぼけながら「お前、今何時やと思ってんねん!」

とすごまれても、心の中で(いやいや、あなたも当直ですよね…)と無駄な抵抗するしかありません。

 

一方、患者さんが急変したときは、研修医一人では頼りになりませんので直接、先輩のポケベルが鳴ります。

「おい、急変や、行くぞ!」

先輩にたたき起こされると、一瞬にしてアドレナリン全開です。病棟まで走り、そのまま朝まで緊急内視鏡や心肺蘇生を手伝ったことも度々ありました。

 

実は我々、当直明けでも家に帰れません。翌日も普通に勤務が続きます。看護師さん達は2交替や3交替制で夜勤明けはお休みですが、我々医師、特に内科系は、「あれ? 先生帰らないの~?」とか言ってくるのんきな夜勤明けの看護師さんを、うらめしげに見送ることしかできません。特に夜中に救急車がバンバン来るような市中の救急病院では、当直中一睡もできずに翌日も外来、検査をこなし、気づいたら夜、医局で寝ていた、なんてこともザラにあります。他大学で過労死案件が出てようやく、さすがにこれはマズいとなって、「医師の働き方改革」を謳った厚生労働省や労働基準監督署の指導で、連続勤務時間が制限される予定ですが、中小規模の病院ではぎりぎりの数のスタッフで業務を回していますので、果たして実現できるかどうか。特にコロナ禍の今、無理矢理やって医療崩壊につながらないか心配です。私は開業してその立場からは外れましたが、今も現場で当直されている先生方には頭が下がります。

 

 

■永遠の下っ端?

以前のブログでも触れましたが、我々は医師研修制度が変わる前の最後の世代でした。我々の1学年下からはスーパーローテートといって、研修医の2年間で数ヶ月ずついろいろな専門科を順繰りに回りながら研修していくというシステムが始まりましたが、我々にはありませんでした。それはつまり、1年経っても直属の後輩が出来ないということを意味します。研修医の雑務は色々ありますが、医局旅行や忘年会で場を盛り上げるのも重要な任務で、宴もたけなわになると医局長の音頭のもと、研修医の宴会芸が始まります。初めての医局旅行でその任を仰せつかった我々は、悩んだ挙げ句、禁断のネタに手を出しました。それは先輩方のモノマネです。それも普段はとてもイジれないような強面の先生のネタばかり。結果は大受け! でも私は、「はぁぁい、お腹をポォーウンと膨らませてぇ~」と、どや顔でモノマネしている同期の肩越しに、その先生の顔が引きつっているのを見逃しませんでした。出し物が終わるやいなや、左手にビール瓶、右手にグラスを持ち、図らずも笑いの餌食となった先生方にひたすら土下座です。でもおかげで医局長の先生からは、「歴代の研修医で一番おもろかったわ」とお褒めの言葉を頂きました。

大役を終えやれやれと胸をなで下ろした我々ですが、大事なことを忘れていました。そう、翌年も代わってくれる後輩はいなかったのです。同じネタをする訳にもいかないので、今度は当時流行っていたテツandトモの「なんでだろう~」に乗せて、ここぞとばかりに先輩をディスるという暴挙に出ました。結果はまたしても大受け! 後で色々と嫌な汗をかきましたが、これをきっかけに見習いから医局員へ格上げしてもらったような気がして、嬉しかったのを覚えています。なお、主治医割当て係の先生をどや顔でモノマネした可哀想な同期は、しばらくの間、患者さんを当てられまくって泣いておりました。

仲の良い先輩、同期と飲み会にて。かげがえのない仲間です。(プライバシー保護のため一部加工しています)

下っ端と言えば、我々にも医局独自のセミローテートはありました。我々は2ヶ月ずつ、消化器外科、救急科、小児科、麻酔科を回ったのですが、働き始めてから消化器内科のことしか知らない私にとって、他科の診療は大変新鮮でした。救急科では1分1秒を争う緊迫した雰囲気にしびれ(ちびり?)ましたし、小児科では病気と懸命に闘う無垢な子供達から勇気をもらい、麻酔科では術中管理の奥深さに感銘を受けました。消化器外科では頑張りを認めてもらえたのか、なんと研修していたグループ長のO先生のご自宅に泊めて頂くという経験もしました。後で聞くと、消化器外科の研修医ですらそんなことはなかったそうです。余談ですが、そのO先生が、当院から遠くない病院の内視鏡ロボット手術センター長に最近就任され、光栄なことに先日わざわざ当院までご挨拶においでになりました。人の縁って本当に大事ですね。

 

 

■患者さんの人生に寄り添うということ

かっこつけるわけではありませんが、私は、医師という仕事は、患者さんの人生の一部(時には全部)を預かるという大変重大な責務を負っていると考えています。研修医時代のあるとき、白血病を患った20歳の青年を受け持つことになりました(当時は血液内科の一部も当科の所属でした)。抗癌剤の副作用で白血球減少が起こり、非常に感染しやすい状態のため、クリーンブースという、内部に細菌やウイルスが入らないような換気システムがついたビニールハウスのような部屋の中に入っており、ご家族との面談もビニール越しでせねばなりませんでした。彼は寡黙な青年で、診察に行ってもこちらの問い以外には多くを語らず、なかなか心を開いてもらえませんでしたが、毎日病室へ通ううちに徐々にポツポツと話してくれるようになりました。

そんな彼でしたが、唯一笑顔を見せる相手がいました。それは毎日面会に来る若い女性。私はてっきり彼女さんだと思っていたのですが、あるとき看護師さんから教えてもらって、それが元カノさんであることを知りました。どうやら別れた後に彼が白血病にかかったことを人づてに知り、彼の元に戻ってきたそうです。

隔離されて孤独なうえに、苦しい抗癌剤治療、先の見えない不安と一人で闘っていた彼にとって、唯一の心の拠り所は彼女でした。2人がよりを戻したかどうか、当人たちに聞きはしませんでしたが、きっとそんなことはどうでも良く、ただ彼女が側にいてくれるだけで安心出来たのだと思いますし、彼女もそんな彼の気持ちを汲んで、毎日足繁く病室へ通ったのだろうと思います。

 

本当に残念なことに、彼は病に打ち勝つことが出来ませんでした。私は治療途中で関連病院に出向したため、彼の最期に立ち会うことは出来ませんでしたが、指導医から聞いたところでは、彼女に手を握られながら、それは穏やかな顔で旅立たれたそうです。

 

彼女の姿をみて、真の意味で患者さんに寄り添うとはこういうことなんだなと、教えてもらった気がします。「寄り添う」とは「心に寄り添う」ということ。振り返ると、当時の私は無口だった患者さんが話してくれるようになっただけで満足していたのかもしれません。目指すべきはその先。無垢の愛にはとても勝てませんが、私の立ち居振る舞いが患者さんの人生を変えることもある、そう気づかされた最初の出会いでした。あのとき以来、彼女は私の中の先生です。

 

 

ここまで長々と続けましたが、研修医時代はそろそろおしまいにして、次回は私の医者人生における恩師との出会いについて書きたいと思います。 <つづく>


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