院長の生い立ち レジデント編(その2)

2022年12月30日

随分とご無沙汰してしまいました。当ブログのファンの方(いるんか?)申し訳ありません。

何をするにも上司の許可が必要だった研修医時代から一転、ある程度一人で任せてもらえるようになって、医師としての仕事にやりがいを感じ始めたレジデント時代。今回はその内情をご紹介したいと思います。

 

■初めての外来診療

レジデントの仕事の中で、研修医と最も大きく違うものは外来診療かもしれません。研修医時代には「シュライバー」と言って、先輩医師(多くは教授や准教授クラス)の診察室の横にちょこんと座って、外来診療のイロハを学びます。「シュライバー」というのはドイツ語で「書記官」を意味する単語で、文字通り先輩医師の言うとおりにカルテ記載もしますが、実際には検査オーダーの入力が主な仕事で、雑用係の面の方が大きかったりします。要は勉強という名目でこき使われているということですが、もちろん学ぶこともあります。患者さんへの説明の仕方や、必要な検査の選び方、治療薬の細かい使い分けなど、教科書には書いていない実臨床に触れることができるのは大きなメリットの一つです。ここだけの話、中には反面教師にしたようなひどい先輩もいましたが。余談ですが、日本の医療界では未だにドイツ語由来の専門用語をよく使います。皆さんがご存じの単語だと、「カルテ」や「メス」もドイツ語由来です。これは我が国の医療が、黎明期にドイツに学んだことと関係しています。私の父の世代などはカルテ記載もドイツ語でしていたそうですが、現在は誰が見ても内容が分かるように、原則日本語で記載することになっています。ちなみに我々は、患者さんにあまり聞かれたくないような内容にもドイツ語の隠語を使うことがあります。例えば「食事に行く」→「エッセン」や、「亡くなる」→「ステルベン」などが有名ですが、あまりネタばらしすると、勤務医の先生方からクレームが来るのでこのへんにしておきます。

 

さて話が少し脱線しましたが、初めての外来診療は戸惑いと失敗の連続でした。

知識も経験も不足していた私は、患者さんから知らないことを質問されても、正直に知りませんとは言えず、あいまいな返答でごまかしたり、見当違いの回答をして、あとで間違いに気づいたり。当時の患者さん達には申し訳ない気持ちでいっぱいです。幸い、隣のブースには前回ブログでご紹介したF先生が外来をしていたので、困ったらすぐに相談に行っていました。

 

そうして少しずつ外来診療にも慣れてきたある日、一人の患者さんが強い胃の痛みで受診されました。前屈みで見るからに痛そうです。

「昨日の晩飯の後から急に痛みが出てきて、様子見てたんやけど、痛くて我慢できへんねん」

私の頭の中に、つたない知識から考えられる病名の候補が浮かびます。

(胃潰瘍? それにしては急やな。胆石発作かな?)

当時の勤務病院の外来にはエコーの装置が必ず置いてあり、F先生からは、症状があればすぐに自分でエコーをするように指導されていました。エコーを当てて見ると…

(胆嚢や胆管は異常なし。でもえらい胃前庭部(注1)だけ腫れてるな。これはひょっとして…)(注1)胃の出口付近のこと

「昨日の夕食に魚食べませんでした?」

「うん、自分で釣ってきた魚をさばいて食べたけど。関係あんの?」

ここまでの流れですでにお察しの方もいるかもしれません。私は緊急胃カメラを依頼しました。依頼病名は「胃アニサキス症疑い」。しばらくして胃カメラをしてくれた先生から連絡があり、「先生、ビンゴやったわ。アニサキス取っといたで~」

患者さんの胃痛は嘘のように無くなり、感謝の言葉を残して帰宅されました。

アニサキスは魚に住み着く寄生虫で、誤って生きたまま食べてしまうと胃の粘膜に食いついて激しい痛みを引き起こします。

自分で検査して、その所見をもとに初めて正しい診断を下すことが出来たうれしさは格別です。どや顔の私に、普段は辛口のF先生も、珍しく「先生、やるな」と褒めてくれました。

当時の勤務病院の医局にて。若い・・・。

■先端医療の底力

当時、受け持っていた入院患者さんに急性肝炎を患っている50歳代の女性がおられました。私の前任のレジデントから引き継いだ患者さんだったのですが、治療の甲斐無く急速に肝機能が悪化し、坂道を転がるように肝不全の状態に陥ってしまいました。そこで大学からバイトに来ていた肝臓専門医の先輩と相談して出した結論は、救命するなら生体肝移植しかない、ということでした。現在でこそ対応できる施設は増えていますが、17年前の当時はまだ肝移植が出来る施設は限られ、当然ながら私の勤務病院では不可能であったため、大学病院へ転院しなければなりません。ですが、それより前に決めなければいけないことがありました。それはドナーを誰にするか、ということ。肝移植にはドナーとレシピエントという役割が存在し、簡単に言うとドナーは肝臓をあげる人、レシピエントはもらう人(患者さん)です。侵された肝臓をすべて摘出し、健康な人の肝臓を半分ほど移植するという訳です。ドナーになるには条件があって、生体肝移植では家族以外なることはできません。

病棟の説明室で重い病状説明をした後、肝移植を受けるには皆さんの中からドナーになる方が必要です、とご家族へ投げかけたところ、真剣に耳を傾けていた20歳そこそこの息子さんが、「僕の肝臓を使ってください!」とすかさず手を上げられました。

私は正直驚きました。肝移植について散々怖い話をした後だったからです。たとえドナーであっても長時間にわたる大手術で命を落とすことがある、無事に手術を終えても身体には大きな傷が入り、肝臓は半分になってしまう、等々。しかし息子さんの目に迷いの色はありませんでした。いくらたった一人の大切な母のためでも、私なら即答できたかどうか。自分よりも若い息子さんの勇気に、私は心を打たれ、これは何としても肝移植までもっていかなくてはならないとその重責を痛感しました。

ところが、転院の準備を進めている間にも患者さんの病状はどんどん悪くなっていきます。いよいよ転院という日の朝、とうとう全身痙攣が始まりました。集中治療室から連絡を受けた私は慌てて大学病院へ連絡し、先述の先輩へ相談します。

先輩曰く「脳出血起こしてたら厳しいなぁ…」

幸いCTで脳出血はなく、肝不全によるものと判断できました。抗痙攣薬でなんとか痙攣を治め、救急車で東大阪から高槻まで向かったのですが、車内で再び痙攣発作が起きてしまいました。用意していた抗痙攣薬も今度は効かず、ただただ早く着くのを祈るばかり。サイレンを鳴らしながら走る40分がどれだけ長かったことか。大学病院の救急外来へ到着するや否や、患者さんは直ちに人工呼吸器につながれ、集中治療室へ運ばれていきました。その後、集中治療の甲斐あって無事に手術の日を迎えることができ、私も先述の先輩の計らいで手術を見学させてもらいました。だんだんと疲労の色が濃くなる外科医の先生方を傍目に、何も出来ない自分のもどかしさを感じつつ、2つ(患者さんと息子さん)の手術室を行ったり来たり。患者さんも息子さんも12時間以上にわたる大手術を見事に乗り切りました。

 

それから数ヶ月が経ち、日々の忙しさにかまけて、その患者さんの存在も忘れかけていたある日、突然私の外来に見覚えのある若者が訪れました。その横にはふっくらした女性が。そう、あの患者さんと息子さんでした。

全身のむくみと黄疸でボロボロだった入院中の姿とは見違えるような元気な姿に、私はその時、これが先端医療の底力か、とまさに雷に打たれたような衝撃を受けました。そして何度も何度も「ありがとうございました」と涙ながらに頭を下げられるお二人を前に、心の中ではもう救命は無理かもと弱気になっていた当時の自分を深く恥じ、少しでも治療の可能性が残っている限り、主治医はどんなときでも最後まで諦めてはいけないのだと気づかされたのです。

 

■「一期一会」を胸に

大学医局に所属している若手の勤務医には、転勤はつきものです。色々な病院で研修することで偏らない知識や技術を習得できるようにするためですが、病院を離れるということはそこに通院・入院されていた患者さんともお別れするということを意味します。

初めての転勤を前にした最後の外来の日。

気まずそうに転勤を切り出した途端に、「これから私は誰を頼ったらいいんですか?」と泣いてくださる患者さんがいて、こんな頼りない私でもそんな風に思ってくれる人がいるということが本当に嬉しくて、我慢できずにこちらもポロポロ泣いてしまったのも、今となっては若き日の良い思い出です。その時以来、私は患者さんとの「一期一会」を大切にするように心がけています。私にとっては大勢の患者さんの中の一人であっても、その患者さんにとっては目の前の私ひとりに身を任せるしかないわけですから、たとえ一度きりの出会いだったとしても、それをおろそかにしていては、信頼関係など築けるはずがないと思うからです。とまあ偉そうに語ってますが、実際にはどこまで出来ているのやら。日々反省です。でも遠く岸和田や高槻など、かつての職場の地から当院までわざわざ通ってくださる患者さんも数人おられるので、少しは出来ているのかな、と励みになっています。

あのとき感じた、患者さんに信頼されることの喜びをいつまでも忘れないように、これからも日々の診療に当たっていきたいと思います。

 

なんだか今回は真面目モードになってしまいました。次回は今回ご紹介できなかったレジデントの生活や、東京での国内留学に至る経緯をご紹介したいと思います。皆様、どうぞよい新年をお迎えください。 <つづく>


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