院長の生い立ち レジデント編(その4)

2024年02月03日

前回は関連病院勤務のレジデントの1日や、期せずして怖い警察の事情聴取を受けることになったエピソードを紹介しました。今回はいよいよレジデント時代も終わりへ向かい、新たな生活への序章をお送りします。

 

■内視鏡の師匠との出会い
以前のブログに、研修医時代に巡り逢った、私の医者人生における恩師について記しましたが、レジデント時代にも、言わば内視鏡検査の師匠とでも呼ぶべき先輩との出会いがありました。S先生は私より7学年上ですから、当時12年目の新進気鋭の中堅医師でした。当時の勤務先にはもっとベテランの先生方もおられましたが、我々若手の指導はもっぱらS先生と、その同期で肝臓・胆道・膵臓専門のもう1人の先輩が担っていました。S先生から口酸っぱく言われたのは、とにかく「ビューティフルピクチャー」を撮れ、ということ。内視鏡検査は画像検査ですから、文字通り「見た目」で診断しなくてはいけません。正確に診断するには、もちろん知識も必要ですが、大前提としてきれいな写真がないと始まらないという訳です。症例カンファレンスでは、泡のひと粒、便カスのひとかけらでも写っていようものなら、ため息混じりに「誰じゃ、こんな写真撮ったんわ。患者さんに謝ってもう一回やり直させてもらえ!」とこっぴどく怒られたものです。ではS先生が撮る写真はどうだったのかと言うと、これぞ「ザ・ビューティフルピクチャー」。当時撮られた一点の曇りもない写真たちは、全国の内視鏡医が手にする数々の教科書に採用されています。

 

そんなS先生に一度だけ、私が撮った写真を褒めてもらったことがありました。詳しい内容は忘れてしまいましたが、私が撮った経鼻内視鏡の写真を、S先生の発表する学会のスライドに使ってもらえたのです。S先生が自分で撮った写真以外を採用するのは異例中の異例でした。しかも当時の経鼻内視鏡は画質が悪く、S先生の評価に耐えうる写真を撮るのは至難の業だったにも関わらずです。「たまたま撮れただけやろ」という陰口は聞こえないフリをして、未だに私、飲み会のたびにこの自慢話をしては後輩にウザがられています。この成功体験があったからという訳ではないですが、今でも内視鏡検査の時は、S先生の教えを胸に「ビューティフルピクチャー」を撮るように常に心がけています。ちなみに当院はオリンパス社製の最新の経鼻内視鏡を採用していますが、当院の機種は一昔前の経口内視鏡を遥かに凌駕する4K高画質を誇っておりますのでご安心ください。ちゃっかり当院の宣伝でした。

当時の勤務先の送別会にて。私(左端)の右隣(左から2番目)がS先生です。

■学会発表
学会の話が出たついでに、我々の学会発表がどんな感じなのか少し紹介したいと思います。我々は自分の専門性に応じて学会に入会します。同じ専門分野でも大概複数の学会が存在し、私の分野なら内科学会、消化器内視鏡学会、消化病学会、消化管学会など、といった感じです。それぞれの学会に個別の専門医制度があって、ある程度の経験を積んだら専門医試験を受け、合格すれば専門医資格が取得できるという仕組みです。別に専門医資格がなくても診療は出来るのですが、学会から認定された医師という信頼性と、自身のキャリアアップのために取得する医師が多いです。専門医試験を受けるにも条件があり、学会参加だけではなく、学会での演題発表が求められます。研修医時代にまずは珍しい症例や、ためになる症例の1例発表から始め、ベテランになるに従い多数の症例を統計解析した結果や、臨床試験の結果を発表するシンポジウムへと発表の場を移していきます。

 

若手の頃は当然1人では発表の準備はできないので、指導医の先生と発表スライドを作り上げていくのですが、私が研修医の頃、A先生という超怖い先生がおりました。その先生のスライドに対するこだわりは半端なく、A塾と呼ばれた学会準備が始まると、学会前の1週間ほぼ徹夜は当たり前。8割出来上がったスライドが一瞬にして0からやり直しなんてザラでした。「誰や!こんなスライド作ったんわ!おらぁ」ってブチギレられるんですが、まさか「いや、あなたですよね?」とは言えず、ひたすらすみません…と謝るばかり。先輩の女医さんはよく泣かされてました。今はプロジェクターでパワーポイントを映す発表が常識(何ならzoomのオンライン発表もありますね)なので発表本番直前でも修正が効きますが、当時は何と作ったスライドを一枚一枚フィルムに焼き付けてそれを映写機でガシャガシャと1枚ずつ送っていくというやり方!でしたから、前日には業者さんに頼んでフィルムに焼き付けてもらわないといけない訳です。大学の敷地内に業者さんが待機してくれてたのですが、A先生のスライドへのこだわりが強すぎて、いつも元データを持っていくのは深夜でした。居残りさせられてる業者さんに平謝りすると、「女医さんに泣きながら頼まれたら断れませんからねぇ」と苦笑い。いつの時代も女性の涙には勝てませんね。

 

とまあ、こんなに厳しい指導でしたが、いざ自分でスライドを作る身になってみると、その時の指導が知らないうちに身についていたことに驚きました。検査画像の選び方、貼り付け方、トリミングなど無意識に出来てしまうのです。なんでもパワハラ扱いされるこのご時世ですが、私個人的にはA先生には感謝しております。そもそも後輩の発表準備に徹夜で付き合えるその熱量がヤバいですよね。私も後に指導医の立場になりましたが、とても真似は出来ませんでした。
研修医でも17時には上がらないといけない時代。もはやこんな熱血指導は不可能ですが、ある意味、我々はラッキーだったのかも知れません。いみじくも全国の高校球児たちを指導して回ってるあのイチローさんが、今の子達は厳しい指導がない分、自分達で自覚してレベルを上げないといけないから昔より大変だよ、とおっしゃっていましたが、言い得て妙ではないでしょうか。

 

■そして東京へ
忙しくも充実したレジデント時代も終盤に差し掛かり、私は関連病院から大学へ戻ることになりました。立場は大学院生です。実は当時の医局の慣習で、研修医が終わった医師3年目にすでに大学院に入学していたのですが、教授の代替わりの時期と重なったことと、臨床が楽しくて仕方なかった私が気付かないふりをしていた結果、研究テーマも決まらず宙ぶらりんのまま2年が経過してしまっていました。大学院も残り2年。大学に戻った以上、さすがにこれ以上見て見ぬふりは出来ません。どうしようか困っていたところ、当時のグループヘッドのM先生から声をかけられました。

 

「実は東京の研究所にいるうちのOGの先生から教授のとこに、誰か研究に興味ある人いない?ってオファーがあって、教授がお前どうやって言ってるんやけど?」
私にとって予想もしてなかった提案でした。即答出来ず、「1週間考えさせてください」とその場を離れたものの、冷静になって考えれば悪い話ではありません。教授の代替わりのタイミングで多くのベテラン先輩医師が医局を離れてしまい、学位の指導をしてくれる先生がそもそもほとんどいない中で、残り2年で本当に学位が取れるかというとほぼ絶望的な状況でした。心残りと言えば、ちょうど楽しくなってきた臨床の世界からしばらく遠ざかることでしたが、そこは若さの勢いで、違う環境でやってみるのも悪くないかな、とあまり深く考えずに数日後に「行かせてください」と返事をしたのですが・・・
この軽いノリが後々大変な悲劇を生むとは、その時の私には知る由もありませんでした。

 

次回は東京国内留学編です。無謀にも基礎研究の道に飛び込んだ私に待ち受けていた試練とは? お楽しみに。 <つづく>


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